神戸地方裁判所 昭和43年(ワ)1382号 判決 1972年4月12日
原告 川口はるゑ
<ほか一名>
右原告両名訴訟代理人弁護士 井藤誉志雄
同 藤原精吾
同 足立昌昭
被告 株式会社山陽相互銀行
右代表者代表取締役 前田勇
右訴訟代理人弁護士 安藤真一
同 奥村孝
同 小松三郎
右訴訟復代理人弁護士 石丸鉄太郎
主文
被告は、原告川口はるゑに対し金二三五万二〇八六円およびその内金二一五万二〇八六円に対しては昭和四三年一〇月二六日から、内金二〇万円に対しては昭和四七年四月二〇日から、各支払済までいずれも年五分の割合による金員の支払をなし、原告川口俊一に対し金三〇万円およびこれに対する昭和四三年一〇月二六日から支払済まで年五分の割合による金員の支払をせよ。
原告らのその余の請求を棄却する。
訴訟費用は被告の負担とする。
この判決は原告ら勝訴の部分に限り、原告川口はるゑにおいて金八〇万円、原告川口俊一において金一〇万円の各担保を供するときは、それぞれ仮に執行することができる。
事実
(一) 当事者の申立
(1) 原告ら
「被告は、原告川口はるゑに対し金二八五万二〇八六円およびその内金二六五万二〇八六円に対しては昭和四三年一〇月二六日から、内金二〇万円に対しては本件判決送達の日の翌日から、各支払済までいずれも年五分の割合による金員の支払をなし、原告川口俊一に対し金五〇万円およびこれに対する昭和四三年一〇月二六日から支払済まで年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求める。
(2) 被告
「原告らの請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決を求める。
(二) 当事者の主張
(1) 原告らの請求原因事実
(イ) 中垣一夫および長田一三は原告川口俊一(以下原告俊一という)所有に係る別紙第一物件目録記載の不動産(以下第一物件という)の登記済権利証を預り保管中であったことから、これを奇貨とし、共謀のうえ、長田一三が昭和二八年六月一日被告(旧商号・株式会社三和相互銀行)から金八〇万円の融資を受けるに際し、原告らの承諾を求めることなく、ほしいままに右登記済権利証を利用して、被告との間に、第一物件に対し債権元本極度額を金八〇万円とする根抵当権設定契約を締結し、同趣旨の登記がなされた。原告川口はるゑ(以下原告はるゑという)は原告俊一の母親であって、原告らの財産を管理していたところ、同年同月四日右の原告ら自身の意思に基づかない根抵当権設定の事実を知ったので、被告に対し右と同趣旨の説明をして、右抵当権の放棄および同登記の抹消方を再三にわたり懇願したのであるが、被告は右担保設定が原告ら不知の間になされたことを了解したにも拘らず、原告らの右懇望を拒絶した。そして、被告はその後、右抵当権に基づく競売申立をなすに至ったのであるが、原告らからの異議申立などにより、同抵当権の無効が明白になってきたことを悟るや、にわかに原告らに対し、「中垣に対する前記横領被疑事件について、第一審の有罪判決がなされることを解除条件として、それまでの間、原告はるゑが被告に対し金八〇万円の貸金債務を負担し、同原告所有に係る別紙第二物件目録記載の不動産(以下第二物件という)に抵当権を設定し、更に数名の連帯保証人が得られるような形式が整えられるなら、被告において前記根抵当権の放棄および同登記の抹消に応ずる」との申入をなしてきた。原告らには右申出に応ずる義務は存在しなかったのであるが、折柄経済的に困窮していたので、第一物件に対する抵当権の登記の抹消を得られるうえ、その代替給付としての債務負担などは形式的なものにすぎないとの被告の説明を信頼して、右申込を承諾し、昭和三三年二月一日原告はるゑらと被告との間に右の趣旨による証書貸付約定書(以下約定書という)が作成された。ところで、右約定書は被告からの右申出のとおり形式的なものにすぎず、被告が原告らに対し同約定書記載の債務の履行を請求する権利の根拠となるべきものではなく、この点については、被告の代表者においても当然了解していたのであり、仮に知らなかったとすれば、それは被告の代表者がその銀行業務に従事するにあたり、それに必要な注意義務を尽さなかった過失によるものである。
(ロ) 原告らと被告間には以上の事実関係が存在し、被告は原告らに対し何らの実体法上の権利を有していなかったにも拘らず、右約定書の存在を奇貨として、原告らに対しては「同約定書中の抵当権の実行手続をとる」と申し向け、更に保証人らに対しては、いやがらせをするなどし、これらによって原告らの意思を強制して、昭和三三年二月から昭和三六年五月四日までの間九回にわたり右約定書記載の債務の弁済金名下に合計金五万八六円を取立て、これを喝取した。
その上、被告の代表者は前記故意または過失に基づき、原告らを相手方として昭和三七年九月頃貸金請求訴訟を神戸地方裁判所に提起して、昭和三九年七月一六日請求棄却の判決を受け、更に控訴して、昭和四一年九月一七日控訴棄却の判決を受け、同年一〇月同判決が確定するに至るまで、不法に訴訟を維持して、原告らに対し損害を加えた。
(ハ) 原告らは被告の右(イ)および(ロ)の不法行為により、左記の損害を蒙った。
(甲) 原告はるゑの損害
(a) 喝取された金五万八六円
前記(ロ)のとおり、原告はるゑが被告によって弁済金名下に喝取された金五万八六円。
(b) 貸金請求事件における応訴費用金一〇万二〇〇〇円
前記(ロ)のとおり、被告が原告らを相手方として提起した貸金請求事件に対して応訴するために、第一審および第二審を通じての着手金および報酬として、原告はるゑが弁護士井藤誉志雄に対し、昭和三七年五月六日から昭和四一年一〇月一一日までの間に一〇回にわたり、支払った弁護士費用金一〇万二〇〇〇円。
(c) 慰藉料金二五〇万円
原告はるゑは当初全額自己資本で、家族による堅実な公衆浴場の経営を計画し、第二物件の土地を購入し、該地上の第二物件の建物の建築費用としては、第一物件の売却代金を充当しようとするなどして、右計画に着手したところ、前記(イ)のとおり、原告ら不知の間に第一物件に対し根抵当権が設定されたのである。そして、被告が右根抵当権設定の無効を知りながら、不当にこれを抹消しなかったので、原告はるゑとしては第二物件の浴場用建物の建築代金の支払に迫られた。そこで、原告はるゑは第二物件を担保として、高砂市の伊保町農業協同組合から金二五〇万円の融資を受けて、右代金支払に充てたのであるが、次には、右債務の弁済に追われる日々を過ごすこととなった。そのため、原告らの家族の生活をも切り詰めるなどして努力したのであるが、遂に浴場の経営維持自体が不能となり、昭和四一年四月末頃第二物件をも売却して、家業を廃止せざるを得ないこととなった。
原告らが右のような生活状況にあったにも拘らず、前記のとおり、被告は貸金請求訴訟を提起するなどして、原告らに対し右約定書に基づく不法な弁済を強要し続けて、原告らの一家を苦しめ続けたのであるが、被告において、少なくとも昭和三九年の控訴申立を差控えていたならば、原告はるゑらの一家が公衆浴場の経営を維持することは可能であった。
以上のような次第で、被告の原告らに対する長年にわたる不法行為により、原告はるゑが受けた経済的・精神的打撃は大きく、右による原告はるゑの精神的苦痛を慰藉するには、被告からの金二五〇万円の支払が必要である。
(d) 本件に関する弁護士費用金二〇万円
原告はるゑは昭和四四年九月原告訴訟代理人に対し、本件訴訟の追行を委任し、着手金および成功報酬として各金一〇万円の支払を約した。
(乙) 原告俊一の慰藉料金五〇万円
原告俊一は原告はるゑの長男として、原告はるゑと共に、右(甲)の(c)記載のような苦労を味わい、被告からの種々の経済的・精神的圧迫と経済的困窮とに耐えてきたのであり、原告俊一の受けた精神的損害を慰藉するには、少なくとも金五〇万円が必要である。
(ニ) 仮に右(ロ)のように被告が原告はるゑから金五万八六円を喝取したのではないとしても、原告はるゑは被告に対し右金員を約定書記載の債務の弁済として支払ったものであるところ、右(イ)記載のとおり、右債務は存在していなかったのであるから、被告は原告はるゑに対し、右金五万八六円の不当利得の返還をなすべき義務がある。
(ホ) 以上のとおり、被告の代表取締役はその職務を行うにつき、原告らに対し損害を加えたのであるから、原告らに対しその賠償をなすべき義務がある。
よって、原告はるゑは被告に対し、右(ハ)の(甲)の(a)ないし(d)(但し、(a)につき仮定的に(ニ)の主張)記載の損害合計金二八五万二〇八六円、およびその内、(a)ないし(c)記載の金員合計金二六五万二〇八六円に対しては訴状送達の日の翌日である昭和四三年一〇月二六日から、(d)記載の金二〇万円に対しては本件判決送達の日の翌日から、各支払済まで、いずれも民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求め、原告俊一は被告に対し、右(ハ)の(乙)記載の損害金五〇万円およびこれに対する右同旨の昭和四三年一〇月二六日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
(2) 被告の答弁
(イ) 原告ら主張の右事実は、その内、(イ)の事実中、被告が昭和二八年六月一日長田一三に対する債権の担保として、原告俊一所有の第一物件に対し根抵当権を取得したこと、被告が右根抵当権に基づく競売申立をしたこと、原告はるゑが被告に対し幾度も右根抵当権の抹消および競売申立の取下を要請して来たこと、原告らが昭和三三年二月一日被告との間において、「被告が第一物件に対する競売申立を取下げ、右根抵当権の抹消をする代償として、原告らが債務者となり、第二物件に抵当権を設定するなどの担保を供する」との趣旨の和解契約を締結し、その旨の約定書を作成したこと、(ロ)および(ニ)の事実中、被告が原告から約定書記載の債務の内入弁済として昭和三六年五月四日までの間に数回にわたって合計金五万八六円を受領したこと、しかしながら、その余の債務の弁済をしないので、原告ら主張のとおり貸金請求訴訟を提起し、請求棄却の判決を受けたことは、いずれも認めるが、(ハ)の(甲)の(c)の事実中、原告はるゑの計画および生活状況はいずれも不知、その余の原告ら主張の事実はいずれも争う。原告らと被告間の昭和三三年二月一日の和解契約は有効であり、これに基づく貸金請求訴訟の提起は権利の行使であって、何らの違法もない。
(ロ) ところで、原告らは昭和四三年一〇月二一日被告に対し本件訴訟を提起したのであるから、昭和四〇年一〇月二一日以前の被告の不法行為を理由とする損害賠償請求権については、三年の短期消滅時効が完成しているので、被告は本件訴訟において、これを援用する。
(3) 被告の右(ロ)の主張に対する原告らの答弁
被告の原告らに対する前記不当訴訟は昭和四一年九月一七日の前記控訴審判決によって終了したものであり、原告らの損害賠償請求権の消滅時効は同日から進行すると解すべきであるから、消滅時効は完成していない。
(三) 当事者の立証≪省略≫
理由
(一) 原告ら主張の請求原因事実の内、昭和二八年六月一日被告を債権者、長田一三を債務者とする債権の担保として、原告俊一所有の第一物件に対し、根抵当権が設定されたこと、被告が右根抵当権に基づく競売申立をしたこと、原告はるゑが被告に対し、幾度も右根抵当権の抹消および右競売申立の取下を要請したこと、原告らは昭和三三年二月一日被告との間に、「被告が右根抵当権の抹消および競売申立の取下をする代償として、原告らが債務者となって、第二物件に抵当権を設定するなどの担保を供すること」との趣旨の契約を締結し、右の趣旨による約定書を作成したこと、原告はるゑが被告に対し昭和三六年五月四日までの間に数回にわたり、右債務の内入弁済として合計金五万八六円を支払ったこと、被告が昭和三七年九月頃原告らを相手方として貸金請求訴訟を提起したが、請求棄却の判決がなされたことは、いずれも当事者間に争いがない。
(二) そこで、原告ら主張の請求原因事実の存否について検討するに、前記当事者間に争いのない事実に、≪証拠省略≫を総合すれば、
(1) 原告はるゑは昭和二三年に夫と死別したので、その後は、兵庫県印南郡志方町などにおいて、長男の原告俊一(昭和三年生)と共に公衆浴場を経営して、その余の五人の子供を養育していたのであるところ、経営不振などの理由で、昭和二七年頃からは神戸市近傍に移転して、公衆浴場を経営しようと計画し、第一物件を購入して、公衆浴場用建物の建築費用の資金源とする予定をたてるなどして、右計画に着手したが、原告俊一においては原告はるゑに対し、第一物件などの財産の管理を一切任せていたこと
(2) ところが、中垣一夫が原告はるゑから第一物件の登記済権利証を寸借名下に借り出し、同人および長田一三はこれを利用して、昭和二八年六月一日長田が被告(旧商号・株式会社三和相互銀行)神戸支店から金八〇万円を借受け、右債務の担保として、原告らに対し何らの通知もせず、原告俊一所有名義の第一物件について債権元本極度額金八〇万円の根抵当権設定契約を締結したこと
(3) 長田一三に対する右貸付に関与した被告神戸支店の係員は、右(2)の根抵当権設定契約の締結に際し、債務者と担保提供者が異なる物上保証の場合であるのに、登記済権利証などの書類の具備について調査したのみで、通常なすべき押捺にかかる印影が原告らのものであるか、原告らの意思に基づくものであるかなどの確認に関する調査は一切せず、事後に右契約締結を通知したのみであったこと
(4) 昭和二八年六月四日頃右(3)の通知を受けた原告はるゑは驚き、直ちに被告神戸支店の支店長代理であった田辺義治などに対し、右(2)の根抵当権設定契約は原告らの意思に基づくものではないことなどを説明して、右抵当権の放棄および抵当権設定登記の抹消登記手続をとるよう強く要望し、その後も連日の如く右田辺などの被告神戸支店の関係者に対し右要請を繰り返したのであるが、右田辺などの被告関係者は銀行としての被告の立場を理由に、裁判などにより中垣らの横領・専断行為が明らかにならない限り、根抵当権設定登記の抹消には応じられないと主張して、右要請を拒絶し続けたこと
(5) そこで、原告はるゑは昭和二九年に中垣一夫を横領罪で告訴したのであるが、不起訴となったので、これに対し昭和三二年五月六日神戸検察審査会に審査請求の申立をし、同審査会が同年一二月「不起訴不当」との議決をしたことから、昭和三三年四月には中垣一夫に対する前記横領事件の起訴がなされ、昭和三八年三月中垣に対する右事件の第一審の有罪判決がなされたこと
(6) 原告らは昭和二九年頃高砂市伊保町所在の第二物件の土地を購入し、昭和三〇年頃同地上に第二物件中の建物を建築したのであるが、右(4)のとおり、被告が第一物件に対する根抵当権設定登記の抹消に応じないため、通常の価格では売却することも、右を担保に融資を受けることもできず、右建築費用の支払に困窮し、昭和三一年第二物件に抵当権を設定して、高砂市の伊保町農業協同組合から金二五〇万円の融資を受けて右の急場をしのいだこと
(7) 被告は昭和三一年九月前記(2)の根抵当権に基づき競売の申立をなし、競売手続開始決定を得て、第一物件に対する右根抵当権の実行をしようとしたので、原告らは昭和三二年に右競売開始決定に対する異議の申立(但し、申立名義人は原告俊一のみ)をして、右根抵当権の無効を主張したところ、神戸地方裁判所は昭和三三年六月一二日前記(2)と同旨の事実認定により右競売開始決定を取消す旨の決定をなしたこと
(8) 被告神戸支店長および右異議事件の被告代理人弁護士奥村孝らは前記(5)記載の検察審査会の決定などにより、第一物件に対する根抵当権が無効なものと考えざるを得ない事情が発生したことから、より安全な担保を得て、被告の債権回収に遺漏なきを計ろうと考え、従前からなされていた原告はるゑからの第一物件に対する根抵当権設定登記抹消方の要求に便乗して、昭和三三年一月頃に至り、原告はるゑに対し「被告が右根抵当権の放棄などに応ずる代償として、原告はるゑ自身が被告に対する債務者となって、金八〇万円の貸金債務を負担したうえ、原告らにおいて数名の連帯保証人と他の物件に対する抵当権の設定などの担保を供与すること」を要求し、右要求の理由としては、「被告の銀行としての立場上、抵当権の放棄などに応ずるためには、代りの担保が必要である。しかし、これも中垣に対する第一審の有罪判決によって、本来の根抵当権の無効が確定されるまでの間の形式的なものである。」と説明したので、原告はるゑは当時の被告神戸支店長椋本四郎らの右説明を信頼し、昭和三三年二月一日被告との間に、「(イ)原告はるゑが被告に対し金八〇万円の貸金債務を負担していることを確認すること。(ロ)原告はるゑ所有の第二物件に対し、二審抵当権を設定すること」などの趣旨の記載ある証書貸付約定書に署名押印し、原告はるゑの弟である高橋武己ら数名が連帯保証人として署名押印したこと
(9) 原告はるゑは第一物件に対する抵当権設定登記の抹消を早急に得るべく、右約定書記載の形式通り、同年同月三日には被告のために第二物件に対し二番抵当権を設定したのであるが、被告の方は不誠実にも従前の根抵当権実行の可能性を捨てず、前記競売開始決定に対する異議申立事件において敗訴の決定を受けた後である同年八月九日に至り、やっと第一物件に対する根抵当権設定登記の抹消登記手続をしたこと
(10) 被告内部の機構として、被告が取得した抵当権の放棄などについては、被告の本店の審査部において審査するものとなっていること
をそれぞれ認めることができる。≪証拠判断省略≫
そうすると、第一物件に対する被告の根抵当権は当初から、原告らの意思に基づかない無効なものであり、右根抵当権の放棄と交換的に作成された約定書記載の債権関係も、形式的なものであって無効なものといわなければならない。そして、原告はるゑに応接していた被告神戸支店の支店長および支店長代理ら、並びに前記異議事件の委任を受けていた弁護士奥村孝らは、昭和三三年四月中垣が起訴されたこと、および同年六月一二日に前記異議事件の決定がなされたことにより、遅くとも右六月一二日以降においては、第一物件に設定された被告の根抵当権が中垣一夫らの横領行為によって設定された無効なものであることを知っていたと判断し得るのであり、且つ前記約定書が第一物件に対する根抵当権の暫定的な有効視を前提とする書類操作上のものにすぎず、金銭の授受などの実体関係を伴うものでもなかったことについては前記被告関係者らの熟知していたところであったのであるから、右被告関係者らがそれぞれ銀行業務或いは弁護士業務に従事するものとしての通常の注意義務を尽せば、容易に原告らおよび高橋武己らの連帯保証人が被告に対し金八〇万円の支払をなすべき義務の存在しないことを知ることができたと考えられるのであって原告はるゑが約定書に自ら署名し、右約定書の文言に従って抵当権を設定したこと、或いは被告が第一物件の抵当権設定登記を抹消するについて、約定書の存在が有力な因果関係を有し、原告らが右抹消によって利益を得たことなどは、前記被告関係者らが約定書中の債権の無効であることを知るための障害になるものであったとは考えられない。
そして、以上認定の事実関係からすれば、前記被告関係者らの原告らに対する前記(2)ないし(4)と、(7)ないし(9)記載の各応接については、いずれも被告の代表取締役がその職務を行うものとして最終的に決定し、指示し、或いは承認していたものであると認められるところ、右代表者が職務上必要な注意義務を尽せば、原告らに対する右応接の不当性を認識することができたのに、これを尽さず、慢然と右指示或いは承認をなして、前記の如き違法な結果を惹起していたものと判断することができる。
従って、被告代表取締役としては原告らおよび連帯保証人らに対し、約定書中の債務の履行を求めるよう、被告従業員らに対し指示すべきではなかったと認められる。
(三) ところが
(1) 前記当事者間に争いのない事実に、≪証拠省略≫を総合すれば、被告の神戸支店の支店長、同支店の整理係北村惣七らの債権取立担当者は、原告はるゑに対し「第二物件に対する抵当権の実行手続を開始する」などとほのめかしながら、執拗且つ強引な催告を繰り返し、更に連帯保証人となっていた高橋潔らの勤務先にまで出向くなどして、原告はるゑをして被告に対し金員の交付をせざるを得ない状態へと追い込み、これによって被告は原告はるゑから昭和三七年六月頃までの間に数回にわたって金二〇〇〇円づつの交付を受けるなどして、結局、約定書の弁済金として合計金五万八六円の支払を受けたことを認めることができる。≪証拠判断省略≫
(2) 前記当事者間に争いのない事実に、≪証拠省略≫を総合すれば、被告は右(1)のとおり約定書中の債権金八〇万円の大部分について満足を得ることができなかったので、被告の債権管理担当者および被告の委任を受けた弁護士奥村孝らが協議をした結果、被告は昭和三七年九月頃原告はるゑに対し、約定書に基づく貸金請求訴訟(神戸地方裁判所昭和三七年(ワ)第九六〇号貸金請求事件)を提起したが、昭和三九年七月一六日右約定書の無効を理由に請求棄却の判決を受けたこと、および被告はこれに対し更に控訴の申立をしたが、昭和四一年九月一九日に控訴棄却の判決言渡がなされたこと、をそれぞれ認めることができる。≪証拠判断省略≫
(3) ≪証拠省略≫を総合すれば、
(イ) 原告らは昭和三一年からは公衆浴場の経営による日々の収益の殆んどを、前記(二)の(6)記載の伊保町農業協同組合からの借金の返済に充てていたので、生活費や子供の養育費にもこと欠き、経済的余裕の全くない状態であったこと
(ロ) しかるに、昭和三三年からは右(三)の(1)記載のような被告からの苛酷な金員支払要求を受けて、原告らとしては右要求に応じなければならない義務は存在しないと考えてはいたけれども、時には前記北村惣七らからの要求の強引さに耐えられず、血のにじむような思いで金二〇〇〇円を数回支払ったこと
(ハ) そのうえ、昭和三七年からは被告からの右(2)の訴提起を受けたので、弁護士井藤誉志雄に依頼して応訴せざるを得なかったこと
(ニ) 右訴訟係属中の昭和三八年三月二五日には中垣一夫に対する横領等被告事件の第一審の有罪判決がなされたので、原告はるゑは被告が第一物件に対する根抵当権の無効のみならず、右抵当権の放棄と引換になされた約定書中の債権関係の無効をも認め、原告らに対する請求を取下げるものと期待して、その旨の要求をなしたところ、被告代表取締役以下の被告関係者は「民事々件には刑事々件と判断を異にするものがあるうえ、約定書は有効な和解契約に基づくものである」などと主張して、原告はるゑの要求を顧慮しなかったこと
(ホ) 被告が前記貸金請求訴訟の第一審において敗訴したにも拘らず、第二物件に対する二番抵当権を抹消しなかったことにより、原告はるゑは他からの融資を受ける途が閉ざされたままとなり、控訴審判決言渡前の昭和四一年四月には遂に第二物件をも売却して、公衆浴場の経営を廃止しなければならなくなったこと
(ヘ) そして、前示認定のような原告らと被告関係者の折衝の間における被告関係者の形式主義的な非情な態度、被告の原告らに対する強引な要求の仕方などによって、原告らの受けた経済的および精神的苦痛は極めて大きく、原告俊一においては右苦痛に耐えられず、遂に昭和三四年に家出をするに至ったこと
をいずれも認めることができる。≪証拠判断省略≫
(四) 以上認定の各事実を総合すると、
(1) 被告神戸支店長らは原告らに対し、昭和二八年六月一日から昭和三三年一月末日までは第一物件に対する根抵当権の放棄などに関し、また、同年二月一日から昭和四一年九月一九日までは約定書記載の債権の取立に関し、いずれも原告らの要求を拒絶し続けたのみでなく、第一物件に対する根抵当権設定当時の被告自身の調査が不充分であった点を反省することなく、且つ右根抵当権の有効・無効について事後的な独自の調査もしないで、根抵当権設定登記を有しているという有利な立場を利用して、担保権放棄などのためには判決などの公権的な判断を必要とするとの形式的な主張を固持し続け、原告らの経済的な困窮状態を聞知しながら、非情にも競売申立の手続をとったこと
(2) そして、原告らからの右競売開始決定に対する異議の申立により、同事件の審理が進行し、証拠によって事態が次第に明白となり、被告に不利な事態がおおうべくもなくなると、前記被告関係者らは、にわかに原告らからの根抵当権の放棄方などの要求に同調するが如き姿勢を示し、右登記の抹消などを口実に、真実は前記異議事件の決定において敗訴することにより、根抵当権を維持すべき根拠のないことが明らかとなる事態に事前に対処して、これを糊塗するため、原告らおよび連帯保証人らに対しては、右抹消のための形式的な書類上の操作にすぎない点を強調して、約定書に署名押印させたこと
(3) そして、右異議事件の決定の理由中において、前記根抵当権の無効が認定された後においても、前記被告関係者らは「原告はるゑが別の抵当権を設定して、金八〇万円の貸金債務を負担することと、前記根抵当権の放棄とが代償関係に立ち、約定書は右の趣旨による有効な和解に基づくものである」と主張して、中垣一夫に対する刑事々件の手続の進行を顧慮することなく、原告はるゑに対し金銭支払を強要し続け、昭和三七年には原告はるゑに対して何らの請求可能な権利をも有しないことを知り得べきであるのに、敢えて約定書のみを根拠に貸金請求訴訟を提起し、第一審で敗訴するや更に控訴し、原告らおよび被告共に中垣の横領行為による被害者であり、しかも右被害を生ずるについて、銀行としての被告において抵当権設定の際になすべき注意を欠いた落度が大きく、右被告関係者においてもこれを知っていたか、少なくとも当然知り得べきであったにも拘らず、自らの落度に想いを致すことなく、いたずらに被告の損失の補填のみを目指し、約定書中の債権の無効或いは取立方法の不当性について反省してみることがなかったこと
(4) 右(1)ないし(3)の被告関係者の行為については、被告代表取締役がその職務として決定或いは承認していたものであることなどをそれぞれ判断することができる。右の諸点からすると、被告の神戸支店長らの従業員および弁護士を介してなされた被告代表取締役の原告らに対する右(1)ないし(3)の一連の職務行為は、前記認定の諸般の事情からみて、著しく反社会的・反倫理的なものと評価され、銀行業務としての債権確保のためにとり得る手段の範囲を逸脱した執拗且つ強引な手段による違法なものと認められるのであって、当該一連の行為は、前後を通じて不法行為を構成するに足るものといわなければならない。そして、被告代表取締役には前記(二)の過失があると認められるから、結局、被告は右不法行為による原告らの損害について、これを賠償すべき義務があるといわなければならない。
(五) そこで、原告ら主張の損害について検討するに、
(1) 前記(三)の(1)記載のとおり、原告はるゑは被告の要求により被告に対し、昭和三三年二月から昭和三七年六月頃までの間に合計金五万八六円を支払ったのであるが、被告が右金員を受領すべき権限を何ら有していなかったこと、前記認定のとおりであるから、原告はるゑは被告の不法な取立により右と同額の損害を受けたものといわなければならない。
(2) 前記(三)の(2)記載のとおり、被告は原告はるゑを相手方として、昭和三七年貸金請求訴訟を提起し、昭和三九年七月同事件の第一審の敗訴判決に対し控訴の申立をしたのであるが、被告代表取締役はその職務上、原告はるゑに対し約定書を理由に金銭の支払方の要求などすべきではないことが明らかであると考えるべきであったのに、被告の損失の補填のみを目指して、いたずらに右訴を提起してこれを維持し、経済的困窮状態にあった原告はるゑをして、あえて応訴せざるを得ない状態に陥らしめたことを認めることができる。そして≪証拠省略≫を総合すれば、原告はるゑは被告からの右貸金請求事件に応訴するため、弁護士井藤誉志雄に対し右事件の訴訟追行を委任したこと、そして、原告はるゑとしては弁護士に依頼することなくして、銀行である被告からの訴提起および訴訟追行に対処することはできなかったこと、そして、原告はるゑが弁護士井藤誉志雄に対し支払った弁護士費用は第一審および第二審の着手金および成功報酬金として合計金一〇万二〇〇〇円であるが、その支払時期および金額の内訳は、昭和三七年五月六日に金二万円、昭和三九年七月二〇日に金二万円、同年一〇月一九日に金一万円、昭和四〇年三月二四日に金一万四〇〇〇円、同年四月五日に金八〇〇〇円、同年六月二九日に金五〇〇〇円、同年一〇月一八日に金一万円、昭和四一年一月一〇日に金五〇〇〇円、同年九月二六日に金五〇〇〇円、同年一〇月一一日に金五〇〇〇円であること、および右金額は右訴の応訴のために相当なものであること、をいずれも認めることができる。≪証拠判断省略≫ そうすると、原告はるゑは被告の不当な訴提起により金一〇万二〇〇〇円の応訴費用と同額の損害を蒙ったといわなければならない。
(3) 前記認定の如く、原告はるゑは昭和二八年六月から昭和四一年九月までの長年月にわたり、被告の不法行為により、種々の経済的・精神的打撃を受けたうえ、昭和四一年四月には家業としての公衆浴場経営の余地さえも失なわざるを得ない状態に追い込まれたのであり、被告関係者の原告はるゑに対する執拗且つ強引な応接には社会的道義にさえも悖る不誠実なものがあるのであって、これらの諸事情によって原告はるゑが受けた精神的苦痛は極めて大きなものがあると認められるので、本件における一切の事情を考慮すると、原告はるゑの右精神的苦痛を金銭賠償によって慰藉するには金二〇〇万円の支払が相当であると考えられる。
(4) ≪証拠省略≫を総合すれば、原告はるゑは被告に対し右(1)ないし(3)の損害などについて、昭和四一年末頃から昭和四三年八月頃までの間に数回にわたり、被告に対し右損害の賠償方を要求したのであるが、被告はこれに全く応じなかったので、昭和四三年一〇月に止むを得ず、自ら本件訴訟を提起したこと、ところが、被告においてこれに応訴し、明白な事実を無視し、原告の権利行使をことさらに妨げるの所為に出たため、原告はるゑ本人のみでは勝訴し得るように本件訴訟を追行することが極めて困難になったので、昭和四四年九月に弁護士井藤誉志雄らの原告訴訟代理人らに対し本件訴訟の追行を委任し、着手金および成功報酬金として各金一〇万円の支払をなす旨の契約を締結したことが認められる。≪証拠判断省略≫右事実および弁論の全趣旨によれば、原告はるゑはその蒙った前記損害の賠償を得るためには、本件訴訟追行のために弁護士に対し訴訟委任が必要であったと判断できるうえ、本件訴訟の訴額および事件内容の複雑さ、並びに主文掲記の如く原告訴訟代理人らの訴訟追行が成功していることなどを併せ考えると、原告はるゑが支払うべき右訴訟委任による着手金および成功報酬金としては少なくとも合計金二〇万円を下らない額が相当であると思料されるから、右弁護士費用金二〇万円は、原告はるゑが被告の不法行為によって蒙った損害であり、相当因果関係を有するものといわなければならない。
(5) 前記認定の事実および≪証拠省略≫によれば、原告俊一としても昭和二三年からは原告はるゑと共に、五人の弟や妹を養育し、将来に備えて、連日、全力を尽して稼動していたこと、その結果、第一物件を取得することができたこと、昭和二八年秋頃から昭和三一年春頃まで結核のため療養し、自己所有名義の財産の管理も原告はるゑに任せていたので、原告俊一自身が被告関係者に対し直接交渉したことはないが、被告により原告俊一所有に係る第一物件に抵当権が設定され、右抵当権の抹消に困難を来していることに憤慨し、耐え難い思いにかられて昭和三四年広島市に出奔してしまったこと、被告の右の如き不法行為により、原告俊一の生活に対する希望のすべてが水泡に帰せしめられざるを得なかったことなどを認めることができる。≪証拠判断省略≫ 右認定の各事情からすると、原告俊一が受けた経済的・精神的苦痛は、かなり大きいものがあったと判断できるのであって、原告俊一が蒙った精神的苦痛を慰藉するには被告からの金三〇万円の支払をもって相当であるといわなければならない。
(六) そこで次に、被告主張の消滅時効の抗弁について判断することとする。
原告らが被告に対し本件訴訟を提起したのは昭和四三年一〇月二一日であること、および被告訴訟代理人が昭和四五年四月七日の本件口頭弁論期日において、民法第七二四条前段所定の短期消滅時効の援用をしたことは、いずれも記録上明らかである。
しかしながら、前記認定の事実によれば、被告の原告らに対する本件不法行為は、昭和二八年六月一日の根抵当権設定を因とし、その後の昭和四一年九月一九日の控訴審判決言渡に至るまでの間における債権取立のための相次ぐ手続をその直接の内容とするものであるところ、これが不法行為は常に債権の実行という権利行使の外観を呈していたため、その違法性を判断することは軽々になし得ないものであったこと、本件不法行為は昭和三三年六月の前記異議事件の決定、昭和三八年三月二五日の中垣一夫に対する有罪判決、昭和三九年七月の貸金請求事件の第一審判決などによって次第にその違法性が明白となり、昭和四一年九月一九日の控訴審判決言渡によって、その違法性が客観的に明白な動かし得ないものとなったこと、原告らは昭和二八年六月当初から、被告の原告らに対する行為を不当なものとして抗争してきたのであるが、右控訴審判決によって被告の敗訴が確定するまでは、その違法性を主張し、立証するに充分な根拠を有し得なかったこと、などを判断し得るのである。そうすると、被告の本件不法行為による原告らの損害賠償請求権の消滅時効の起算点は、昭和四一年九月一九日と解すべきものであり、右同日までに、原告らが被告に対し本件訴訟の如き損害賠償請求をすることには事実上極めて困難な事情があったものと解さざるを得ず、右起算点決定の観点からは、原告が右同日に至るまで被告の債権取立行為の違法性を確信するには至っていなかったものと認められる。従って、本件不法行為による損害賠償請求権の消滅時効は、その内容である各行為のなされた時、即ち不法行為成立の時から直ちに進行するとの被告の見解は、当裁判所において採らないところであるので、これが見解を前提とする被告の右消滅時効に関する抗弁は、失当という外はない。
(七) そうすると、原告はるゑの非債弁済の主張について判断するまでもなく、被告は原告はるゑに対しては、前記(五)の(1)ないし(4)記載の損害合計金二三五万二〇八六円およびそのうち、(1)ないし(3)記載の損害合計金二一五万二〇八六円については、本件不法行為の終了した日の後であり、本件訴状送達の日の翌日であること記録上明らかな昭和四三年一〇月二六日から、(4)記載の金二〇万円については、本件判決送達の日の翌日以後の日であると思料される昭和四七年四月二〇日から、各支払済までいずれも民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払をなす義務があり、原告俊一に対しては、右(五)の(5)記載の慰藉料金三〇万円およびこれに対する右同旨の昭和四三年一〇月二六日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払をすべき義務があるといわなければならない。
(八) よって、原告らの本訴請求は、その内、被告に対し右各義務の履行を求める限度において理由があるから、これを認容するけれども、その余は失当であるから、これを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条・第九二条但書、仮執行の宣言につき同法第一九六条第一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 坂上弘 裁判官 松村恒 伊東正彦)
<以下省略>